東日本大震災より1年後の被災地のレポートreport
未曾有の国家的危機である東日本大震災の発生から1年が経過しました。
地震の直接被害で大規模半壊の判定を受けた私の仙台の実家もようやく工事が終わりに近づいたため、震災前に度々訪れ、その後がずっと気になっていた南三陸町や石巻市の現在の状況を目に焼き付けておこうと津波の被災地に車を向けました。
1年前、社員や友人から寄せられた水や食料やカセットボンベを満載にした4輪駆動車で被災地に向かった際には、凸凹や亀裂だらけであった途中の道路は一部を除いて復旧整備されておりましたが、津波の被災地の現状は復旧にはあまりにも遠く、言葉を失うしかありませんでした。
南三陸町の防災対策庁舎です。
ここでは防災無線で最後まで避難広報を実施していた遠藤未希さんをはじめ、町民を守るために働いていた40名以上の方が亡くなったそうです。
事故や災害が発生した際に避難誘導を担当する警備業に携わる者として、身につまされる思いがあります。
線香を手向け、心から御冥福をお祈りしてまいりました。
背後に霞んで見えるのは公立志津川病院です。
そこまでの間にたくさんあった住宅は、全て基礎だけを残し、人々の生活と共に跡形も無くなってしまっています。あふれる涙を禁じ得ませんでした。
南三陸町の公立志津川病院です。
ここでは4階まで津波が押し寄せ、入院患者と看護師さん、計74名もの方が亡くなるか行方不明となっています。
実家で購読している河北新報さんの記事によれば、生き残った看護師さんも津波発生時には死を覚悟し、後日自分が発見された際のために自分の腕に自分の名前をマジックで書いたりしたそうです。
助けられなかった患者さんが、電動ベットごと引き波にさらわれていくのをどうすることも出来ない無念さとは、どれほどの苦痛でしょうか。
ここでも手を合わせ、心から御冥福をお祈りするばかりでした。
南三陸町の一角に津波でつぶされた車が集積されていました。
破損状態からも津波の威力のすさまじさに、あらためて驚かされます。
車の所有者の方が無事に避難されたことを祈るしかありません。
南三陸町のガレキの山です。
県外処理の受け入れを強硬に拒否する一部の人々の気持ちもわからなくはないですが、何とかならないものなのでしょうか。
あくまで私個人の見解ですが、行政の安全性に関する説明不足を理由にして反対を主張している人達の中には、仮に行政がどんなに説明を尽くしても決して納得することなど無い方々も少なからずいるのではないかと思います。
南三陸町の蒸気機関車 C58 16です。 かつては北海道、宮古、中国、関西、会津と各地で活躍し、その後は公園で遊ぶ子供達を あたたかく見守っていたであろうSLが、今はガレキと共にありました。 人々の生活が破壊され復旧もままならない現状ではやむを得ない事なのでしょうが、あま りにも悲しい末路です。
100トンもの重量のある C58を押し流してしまう津波の威力に、あらためてめて恐怖を感じます。
石巻市街です。
海までの間にあった家屋は、全て基礎だけを残して無くなり、雑草が芽生えていました。
この辺りは、津波の後に火災にまで襲われ、ほぼ壊滅状態であったそうです。
まるで戦争で空襲を受けたの後のような状態が今でも続いています。
震災後1年を経過した今でも、復興という言葉は、ここでは微塵も感じられませんでした。
写真の奥に堤防のように見えるのはガレキの山です。
上の写真と同じ場所に設置されている看板です。
看板には「がんばろう!石巻」の文字が。手前のアスファルトには「復興するぞ!」と書かれています。
理不尽とも思える大災害に全てを奪われ、希望すら失いかけた人々に、どれほど力を与え続けていることでしょう。
おそらく自分自身も大変な状況でいらしたでしょうに、この看板を設置された方に心から敬意を表します。
石巻市立門脇小学校です。
津波の後の火災で焼け焦げ、震災後1年が経過した今でも惨劇を色濃く伝えています。
こちらの児童さんは、学校関係者の適確な誘導によりほとんどが助かったそうです。
生と死に境目のない、まさに生き地獄の状況の中で、親や家族と再び会うことが出来なくなってしまった子供達の思いは想像するに余りあります。
強く生きてほしいと切に願います。
石巻市のガレキです。
奥の方に見える日和大橋まで、ガレキの山が堤防のように続いています。
この場所だけでもあまりの量の多さに唖然としてしまいます。
市全体ではどれほどの量が存在しているのでしょうか。
復旧にはまだ時間がかかりそうです。
今後も継続した支援の必要を痛感して石巻市を後にしました。
株式会社アウター・ガード・システム
取締役 阿部
アウター・ガード・システムは依頼者の立場に充分に配慮した、思いやりをこめた「人間警備」を提唱します